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実のことを言うと、本当はM&Aという言葉より、経営のバトンタッチとかの言い方の方が個人的には好きなのですが、如何せん最近は猫も杓子もM&Aというのが流行りで、日本ではgoogleでM&Aというワードは月9万5000回も検索されるのだそうです。
ひと昔前では本当に考えられなかったことですね。
さて、ひと昔前はM&Aと言えば、身売りとか乗っ取りとかロクなイメージがなかったものですが、それはあくまでもひと昔前のお話。これがふた昔前、というか戦前は全く逆に日本は世界トップクラスのM&A先進国だったのをご存知でしょうか?
実際のところ、戦前の企業家達は今よりも遙かにM&Aの効果を理解していました。一般に考えられているのとは全く逆に、かつての日本は一大M&A大国だったのです。
▼ 日本のM&Aは大阪から始まった
日本のM&Aは、1889年大阪の北浜銀行の頭取だった岩下清洲(後の近鉄、阪急社長)が 『地方色の強い中小企業が多い紡績産業が、国際競争力をつけるには企業合同(M&A)によって企業基盤の強化を図らなければならない』と語り金融機関主導で企業再編を進めようとしたことを嚆矢とする、とされています。
その後こうした風潮は益々強くなり、日露戦争後に商工大臣になった清浦奎吾などは『全ての企業がM&Aによって国際競争力をつけるべきである』とまで語ったほどです。
こうした流れの背後には2つの理由があります。
第一は、競合する中国やインドの紡績産業の台頭によって日本の当時の主力産業であった紡績業が競争力を失い、輸出が頭打ちになったことです。加えて日清戦争後の原料価格の高騰に加え、賃金の上昇により国内生産のコストがあがったことも痛手でした。
まるで現代の日本を見ているようですが、当時の経営者がこの難局を打破する方法として選んだ道がM&Aだったのです。
そんなわけで最初のM&Aブームはまず紡績業で起こりました。
現在残っている記録によると、1939年まで少なくとも鐘淵鐘紡(カネボウ)が20件、富士瓦斯紡績14件、王子製紙13件、東洋紡績13件のM&Aを行ったと記されています。
ことに鐘淵紡績は1900年の不況時に、再生型M&Aによって九州紡績、中津紡績、博多紡績を次々と合併、九州のマーケットを完全に手中に収め、わずか10年間で其の規模を21万鐘から46万鐘にまで拡大させました。
こうしたM&Aのは概ね大きな成果を収め、特に不景気下でM&Aを活用して巨大化した鐘淵紡績は、一時日本最大の企業になるまでになったのです。
明治初期に数百社存在した紡績企業は昭和初期にはほぼ6大企業に集約されました。こうしてM&Aによって強化された戦前日本の紡績業は世界最強を誇り、1936年にはイギリスを抜いて世界シェアトップとなるまで発展するまでになったのです。